110mHの曽我賢太郎(新潟明訓高出)、     地元で開催するインカレが復活への第1ハードル

陸上競技 2020/08/31
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text : inoue kazuo
井上 和男

 スタートからゴールまで110m。その間にはハードルが10台。高さ1m以上もある障害物を跳び越えながら、13~14秒で走り抜ける。
 2019年3月。香港で開かれた第3回アジアユース陸上選手権大会の110mハードルに日本代表として銀メダルに輝いた、当時新潟明訓高校2年の曽我賢太郎。今春、東京学芸大学へ進学し、9月11日(金)から3日間、デンカビッグスワンスタジアムで開催されるインカレ(第89回天皇賜盃日本学生陸上競技対校選手権大会)に臨む。

 
 
自主練習の日々。「今できることをやるだけ」
 
 「インカレにはぜひ出場したいですね。でも、このタイムでは戦えない。13秒台を出したいし、出さないと。それでも厳しい。今は相当レベル(タイム)が上がってきています」。
 曽我の110mハードルのベストタイムは14秒23。インカレに出場するための参加標準記録Bは突破しているが、タイムは高校2年時に出したもの。いまだ更新できないでいる。
 
 コロナ禍で、東京・小金井市にある大学は現在も学生の入構が禁止され、構内にある体育会陸上競技部の練習トラックも使えない。曽我は、入学前の3月に1週間ほど部に合流しただけで、7月末までは実家のある新潟市内へ戻り、オンラインでの大学授業と一人での自主練習の日々。自分自身と向き合いながら過ごした。
 
 今は、大学近くの自宅アパートから自転車で1時間以上もかけて埼玉県のグラウンドへ通い、部の仲間数人と共に練習を行っている。孤独からは解放されたが、いつになれば再開できるのか、先が見えないことに変わりはない。
 「今できることをやるだけ」。曽我はそう自分に言い聞かせる。
 

母校の後輩たちと一緒に練習をする日もあったが、高校時代に通いなれた新潟市陸上競技場での自主練習はほぼ一人だった


 
 1年以上、曽我は実戦から遠ざかっている。最後にレースをしたのは、昨年8月の沖縄で開かれた全国高校総体(インターハイ)決勝。自己ベストから3秒以上遅れる17秒台のタイムで8位に終わった。準決勝でゴール直後に転倒して右ひざを負傷。後十字靭帯の部分断裂の大けがを負っていた。
 
 
「大きな大会になるほど緊張しない。失うものがないから」
 
 高校2年で曽我は全国トップレベルに成長した。18年10月に出場した第12回U18(18歳以下)日本陸上競技選手権大会に13秒87で優勝。その勢いをかって出た翌年3月のアジアユース陸上では13秒64で銀メダルを手にした。
 「大きな大会になるほど緊張しない。ここまで来たならレースを楽しめばいい、そういう気持ちになってくるんです。失うものがないから」。
 
 ハードル競技は、大会や年齢(カテゴリー)、走る距離や男女によってハードルの高さが違う。110mハードルの中学生やU18の大会では0.914mのヤングハードルが使われ、アジアユースはこの高さで行われた。この上が0.991mのジュニアハードル、大学をはじめ一般の大会ではさらに高い1.067mのハイハードルが使用される。高校総体もハイハードルだ。高さは競技発祥の英国の単位であるフィート(feet)が基準。0.914mは3feetになる。本人の持つアジアユースやU18でのタイムとベストタイムが大きく違うのは、ハードルの高さが異なるからだ。
 
 アジアユースの後、総体へ向けて再びハイハードルの走りに取り組んだ曽我。「またぐように越えていくのがヤングハードルで、ハイハードルは跳び越えていく感じ」。
 その差約15㎝は頭では分かっていても、いざ切り替えとなると容易ではなかった。新潟明訓高で曽我を指導した金子峰人陸上部監督は「日本代表になって国内外の合宿や大会があり、冬のトレーニングを満足に積めなかった」ことも大きかったという。
 
 6月の新潟県や続く北信越の総体では1学年下の選手の後塵を拝した。調整がうまくいっていなかったことは本人も認めつつ、「そこで(心が)折れてしまってもな、と思っていた」と、当時は冷静だったと振り返る。とはいえ、高校最後のシーズンに逸る気持ちがなかったといえばうそになるだろう。
 
 
足は速くなかった。負けず嫌いが火をつけた
 
 端正な顔立ちとハイトーンの優しい声質が相まって、曽我の印象は爽やかだ。そんな外見とは裏腹に本人曰く「大の負けず嫌い。友達とのトランプでも絶対に負けたくない。腕相撲も、弱いくせに挑んで、負けると言い訳する。勝つまでやり続けちゃうんです(笑)」
 
 陸上競技を始める前、足は速くなかった。小学校からやっていたラグビーのために「陸上をやれば少しは速くなれるかな」と鳥屋野中学1年で陸上部に入り、2年から陸上に専念。
 当初は100mをやりたかったが、部内の選に漏れた末に「顧問の先生に勧められたので」100mハードルを始めた。
 今に至るきっかけはそんな軽いものだったが、いざ始めると負けず嫌いの性格にすぐに火がついた。勝つためにひたむきに練習し、中学3年で全中の県大会と北信越大会で優勝を成し遂げた。
 

新潟でも東京でも、愛車は自転車。トレーニング行き帰りの「足」だ。


 
 
高校総体での屈辱。大学でもう一度最高の自分を
 
 ハードルを始めて1年で県大会優勝、アジアユース銀メダル、ケガを押して出た高校総体決勝…。全て、大の負けず嫌いゆえの、強い向上心がもたらした結果だ。
 
 「最後のインターハイは優勝を目標にしてきたので、さすがに悔しかった気持ちはあります。けれど、もしあそこで(頂点を)取ってしまっていたら、楽しんで燃え尽きていたかもしれない。自分の性格だと、もう陸上をやらなくてもいいんだと思っていたかもしれない。だから(インターハイの結果は)大学でもっと頑張ろうと思えるきっかけになった」
 
 1年以上のブランク、自主練習の日々。いかに負けず嫌いでも、この先が甘くないことは本人が一番分かっている。「大学4年間のうちに、もう一度自分の最高のパフォーマンスを発揮すること」。それが今の目標だ。
 
 
profile曽我賢太郎(そが・けんたろう)◉2002(平成14)年3月22日生まれ、新潟市出身。上所小ではラグビー、鳥屋野中1年で陸上部に入部し、110mハードルを始める。全中の県大会と北信越大会で優勝、本大会8位。新潟明訓高に進み、18年U18日本陸上競技選手権大会優勝、19年アジアユース陸上選手権大会準優勝。19年県高校総体3位、同北信越総体3位。178㎝、70kg。

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