Runner—永田務<第2章>

陸上競技 東京2020 2021/11/24
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text : matsushima satoshi
松島 聰

パラスポーツに取り組み始めて、2年4カ月。

永田はパラリンピック銅メダリストになった。

それは奇跡のようなことの積み重ねだった。

 

 

挑戦のはじまり

 

永田は結婚を機に故郷・新潟に帰ることにした。

結婚したら新潟に帰る。それは以前から決めていたことだった。

「東京は目的や目標があっているところだと思っていました。住む場所ではないと思っていたので、東京で子育てをすることがイメージできませんでした。妻も新潟出身ですし、競技生活に踏ん切りをつけるためにも、東京を離れ、新潟でしっかり働いて、生活の基盤を作ろうと考えました」

 

永田は、新潟ふれ愛プラザの丸田徹を訪ねた。

「障害者の支援施設なら、障害者とつながって、今まで自分が経験してきたことを生かすことができるのではないかという思いが、漠然とありました」

永田は、単刀直入に「職員を募集していないですか?」と丸田に聞いた。

 

丸田の職場では当時、職員の募集はしていなかった。しかし、丸田は永田の申し出を受けて考えた。

丸田が勤務する「新潟ふれ愛プラザ」は、障害者を支援する複合施設で、新潟県の各種障害者支援団体の他、新潟県障害者スポーツ協会が置かれ、スポーツ協会は障害者スポーツの普及、強化を行っていた。障害を持った競技選手をサポートできるのは、新潟県ではここだけで、永田は競技選手のサポート役に適任なのではないかと丸田は考えた。障害者は障害者にサポートされる方が安心するということを丸田はこれまでの経験から知っていた。

 

永田と丸田の出会いは2015年ころになる。

「2013年に東京オリンピックパラリンピックの開催が決まって、新潟県のパラリンピックコーディネーターとして、普及強化の責任者をやることになりました。市町村と協力して、県内にパラスポーツを普及させることと、競技力を向上させることが主な仕事で、当時、新潟県からパラリンピックに出場する選手を5人出そうと目標を立てました。選手の発掘活動をやっている中、医療関係者から永田くんの名前が上がって、アプローチした結果、新潟に帰ることがあるから、そのときに会おうということになったんです。2015年だったと思います」

 

永田の実績は申し分のないものだった。

当時の男子マラソンT46(切断・運動機能)クラスの世界記録はアブデラマン・アイトカモウチ(スペイン)の2時間33分08秒。永田の自己ベストは2時間23分23秒(2015年:古河はなももマラソン)。42.195キロ以上を走るウルトラマラソンで日本代表の経験もある。条件が揃えば、パラリンピックで金メダルが狙える逸材だった。しかし、このとき、話が前に進むことはなかった。永田がマラソン競技のあるT46クラスに認定されるには、障害について、精密検査をする必要があったのだが、当時、ウルトラマラソンを主戦場にして、健常者と競っていた永田にとって、パラリンピックは「そこまでして、やることなのか」という思いがあった。丸田も永田がパラスポーツという枠組みではなく、健常者と競い合って、結果を残していくことができるのならば、むしろそのほうが永田にとっても、パラスポーツにとってもいいことだと考えた。

永田をパラリンピックに送り込んでメダル獲得という丸田の思いはこのとき途切れたが、丸田はその後も積極的に永田と関わった。それは丸田にとって、永田が競技者としてだけでなく、人間として興味深い存在だったからだ。そして何かに導かれるようにして、永田は丸田の下で働くことになる。

 

2019年4月、永田は新潟市江南区の「新潟ふれ愛プラザ」での勤務を始めた。仕事は、受付、プールの監視、体育館、トレーニングルームでのサポートのほか、陸上教室を受け持つことになった。

 

永田の勤務が始まるとすぐに丸田は障害者スポーツに参加することを勧めた。

「障害者スポーツを理解するには、出場するのが一番いいと考えたんです。選手とのつながりができるし、選手を支援する上でも貴重な経験になります」

 

永田は丸田の勧めに応じて、5月、新潟県障害者スポーツ大会に出場。知的障害のある選手たちと1,500mを走った。このレースが永田のパラアスリートとしてのデビュー戦である。永田は飛び抜けた成績で全国障害者スポーツ大会の新潟市代表に選出されたが、本大会は台風のため、中止になった。

 

7月、関東パラ陸上選手権大会に出場。

この大会はWPA(World Para Athletics)の公認大会だった。

可動域や筋力を検査され、T46クラスの選手として、1,500mと5,000mに出場した。

 

8月、国際クラス分けの資格を持った池部純政(一般社団法人日本パラ陸上競技連盟クラス分け委員会委員長)が永田を訪ねてきた。

「関東パラでは、可動域でT46の可能性があると言われましたが、池部さんは筋力低下で可能性があると言いました。事故の時、腕が強く引っ張られたことによって、首の神経を損傷し、筋力低下が起きているのではないかという見立てでしたが、T46に認定されるにはさらに検査が必要だということでした」

 

永田は競技生活にひと区切りつけ、仕事優先の生活を送ろうと決意して新潟に帰ってきていたので、パラリンピックは遠い世界だった。しかし、このころ永田の心の中でも何かが動き始めていた。

「(障害者スポーツに対する)気持ちは半々でしたが、何か大きな流れの中にいるように感じていました」

 

ターニングポイント

 

12月、IPC(国際パラリンピック委員会)登録に必要なMDF(Medical Diagnostics Form)を作成してもらうため、和歌山県立病院に検査入院した。

「正直言って、ここまで大きなことになるとは思っていませんでした。最初はパラリンピックの選手にと思っていましたが、ウチの職員になったこともあって、事情が変わっていました。プライベートの時間で練習してもらって、たまに国内の大会に出る‥‥程度のことを想像していたんです。競技者として本格的にパラリンピックを目指すのか、それとも競技への気持ちを封印してサポート役に回るのか、和歌山行きがターニングポイントだったと思います」

 

永田のT46クラス認定が現実のものとなれば、実績から見て、永田は一躍、東京2020パラリンピックのメダル候補として脚光を浴びることになる。しかし、「候補」の段階で資金面のサポートをしてくれるところはない。パラリンピックを目指すのなら、経済的な問題が永田にのしかかる。

「永田がパラリンピックを目指すのなら、競技を勧めた自分が(資金を)何とかするしかない」丸田は腹をくくって、資金を用意した。

一方、永田は、自分の障害がそれほど重いものだと思っていなかった。精密検査をすれば、それがはっきりするから、パラリンピックへの挑戦は、和歌山で終わるのではないかと思っていた。

 

和歌山県立病院は、永田の筋力について、腕神経叢損傷という障害が原因で、肩口から低下していると診断した。T46クラス認定の可能性が広がった。和歌山での検査は神経に針を刺して筋電図を撮るという精密で過酷なもので、激しい痛みが伴った。1週間の検査入院で永田は心身ともに疲れ果て、和歌山から戻って、しばらくグッタリとしていたが、検査の結果を知った丸田は「これでいよいよパラリンピックまで走り続けるしかない」と覚悟した。丸田が心配していたのは資金面のことだった。自分の用意した資金で足りるだろうか。一方、永田の力量に関しては「最短距離でパラリンピックまで駆け上ってくれる」と確信していた。

 

東京2020パラリンピックに向けて

 

東京2020パラリンピック出場に向けてのスケジュールが検討され始めた。

新潟県障害者スポーツ交流センターの計良拓海が男子100mの松田將太郞選手(脳性まひT37)のサポートしていた。その経験が役に立った。また、以前、新潟ふれ愛プラザに勤務していた日本パラ陸上競技連盟理事の大島さとみも力を貸してくれた。こうしたリソースを持っていたことが永田のパラリンピック挑戦を強く後押しした。

 

まず、T46クラスの国際認定を取らなければならない。それから、6月までにWPA公認の国内レースに出場して、ハイパフォーマンス標準記録を突破する。

国内レースを4月19日に行われる「かすみがうらマラソン2020」に定め、2020年3月、オーストラリアで行われる「2020 Queensland Athletics Chanpionships」に出場し、国際認定を取ることになった。

 

「オーストラリアに永田くんだけでやるわけにいかないので、計良拓海くんを同行させることにしました。計良くんはパラ陸連の仕事も経験している陸上経験者であり、心強い同伴者ですが、それだけお金がかかるということです。このときは、職場からの補助の他、長年、新潟県内のパラスポーツを支援していただいている(公財)真柄福祉財団からのバックアップもあったので助かりましたが、障害者のスポーツは、健常者以上にお金がかかることを実感しました」

 

2020年2月29日、永田はオーストラリアに渡った。東京2020パラリンピックの開幕まで6カ月を切っていた。

 

オーストラリアでの最初の検査は「(T46に)該当しない」だった。

「心が折れました。たくさんの人に期待され、経済的負担もかけて、オーストラリアまで来たのに、ここでパラリンピックへの道を閉ざされたら、みんなに合わせる顔がない」

 

検査は2回受けることができる。永田は2回目の検査までの時間を待合室のソファで過ごした。病院のスタッフが「あの検査員は前の人も該当しないにした。そういう人なんだ。今度は大丈夫だ」などと慰めてくれるのだが、永田の精神状態は限界に達していた。「もしダメだったら、日本に帰れない。逃げ出したい」。良くないことばかりが頭をよぎった。不安で押しつぶされそうな永田を同伴した計良が支えた。

「最初の検査員は、和歌山のデータを見ていなかったんです。それでしきりに腕を触るのですが、触られると痛いんです。さらに腕を動かすことを求められて、もっと上がるだろう、もっとできるだろうとしつこいくらいに言われました。これまでに嘘をついて検査をパスした人がいたので、仕方のないことなのかもしれませんが、その言葉や態度に強い反発を覚えました」

 

ギリギリの精神状態で迎えた2回目の検査だったが、今度は拍子抜けするくらい、あっさりと終わった。

2回目の検査スタッフはデータに目を通した上で、ケガをした時期、状況などを聞いた後、ベッドで軽く腕に触れただけだった。

永田はT46クラスの選手として1,500mに出場し、オーストラリアのコースを4分18秒10で走った。

「計良くんがいたからこそ、2回目の検査をパスできた。彼は随所でいい仕事をしてくれました。影のMVPだと思っています」

 

3月10日、帰国。

オーストラリア政府は新型コロナウィルス感染拡大防止のため、3月下旬からオーストラリア人や永住者以外の全ての渡航者の入国を禁止する措置を取った。永田の渡航はギリギリのタイミングだった。

 

広がる新型コロナウィルス感染症

 

このころ、2019年末に中国武漢市で報告された新型コロナウィルス感染症が世界的に広がっていた。日本国内でも感染が広がっていて、3月9日、プロ野球が開幕戦の延期、Jリーグが公式戦再開の延期を決定し、WHOが「パンデミック」宣言をした11日にはセンバツ高校野球の中止が決まった。

 

永田が参加する予定だったかすみがうらマラソン2020(4月19日開催予定)も3月17日に開催中止が決定した。永田はT46クラスの選手として、実績を作る機会を失ってしまった。

 

世界的に感染が拡大する中、オリンピックの開催に疑義を唱える声が次第に大きくなった。3月24日、安倍総理大臣はIOCのバッハ会長と電話会談を行い、東京2020オリンピックパラリンピックを1年程度延期することで合意した。

 

目標にして走ってきたゴールが突然、遠くへ行って、霞んで見える。

しかし、準備する時間が増えたと見ることもできる。

 

3月から4月にかけて感染者数が急拡大したことを受けて、政府は4月7日、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、大阪府、兵庫県、福岡県の7都道府県に緊急事態宣言を発出。16日には対象を全国に広げた。

 

永田は以前のインタビューで、このころのことについて、こう答えている。

「いい準備ができていたので、(かすがうらでは)それなりに走ることはできたと思います。恩師が応援に来てくれることになっていたし、楽しみにしていたので、残念な気持ちはありましたが、不運に思ったり、気落ちするようなことはありませんでした。パラリンピックは延期になったかもしれませんが、今の自分は、もっと先にあるものを見ているような気がします。結婚して、新潟に帰ってきて、競技生活に一区切りつけようと思っていたところに、思いがけなく、パラリンピック挑戦という目標が出てきた。もっと速くなりたい、まだまだ頑張りたいという気持ちがまた強くなっています」

 

和歌山に行く前は「半々」だった競技に対する気持ちは強く、大きなものになっていた。

 

新型コロナウィルスによる肺炎で3月29日に志村けんさんが亡くなり、4月23日には岡江久美子さんが亡くなった。著名人が亡くなったことによって、コロナ関連の報道は過熱し、社会は騒然となった。

全国の小中学校、高校の9割が休校し、高校総体、夏の高校野球が中止になった。

Jリーグの再開、プロ野球の開幕が決まったが、当分の間、無観客試合となった。

スポーツばかりでなく、あらゆるイベントが中止になり、感染拡大を防止するための制限や自粛が長引くことを想定して「新しい生活様式」という言葉が盛んに使われるようになった。

 

こうした中、6月、永田は父親になった。

愛娘の存在は張り合いであり、癒やしであった。

「仕事をしながら、しっかり練習すればいい」

永田は自分にそう言い聞かせた。

 

 

社会の変化、永田の変化

 

コロナウィルスの感染拡大は、社会に大きな変化をもたらしていた。

永田の周囲でも変化が起きていた。

「感染拡大を受けて施設が休館になったり、感染予防のための作業が増えたり、これまでにない経験をして、施設は動揺していました。永田くんのパラリンピック挑戦は、新潟県の障害者スポーツを前に進める機会になるし、施設の職員にとっても名誉なことでしたが、応援しようという機運は次第に限られた人のものになっていきました」

 

T46クラスと認定されたものの、永田はパラアスリートとしては何の実績もない無名の選手だった。走る機会さえあれば、結果を残す自信はあったが、コロナ禍によって、その機会が失われたままになっていた。

「エントリーする、キャンセルになる、エントリーする、キャンセルになる、その繰り返しでした。永田くんは辛かったと思います」

永田は自らT46クラスの設定がないマラソン大会の事務局に直接電話をして、「走らせてもらえませんか」と交渉したりもした。宙ぶらりんの状態が苦痛だった。

 

「11月ころだったと思います。永田くんが仕事を辞めて、アメリカのレースに出ると言い出しました。ここは福祉施設ですから、感染が拡大している中、職員が海外に行くのはタブーです。それが本人にも分かっていたから、辞めると言いだしたのでしょう。そこまで追い詰められた気持ちでいるのかと思うと、競技を勧めたことを後悔しました」

 

丸田は永田の資料を作り、あらゆるネットワークを使って、日本パラ陸連にアピールした。

「1回でいい。チャンスが欲しい。このままだと永田くんは心に一生消えない傷を負うことになる」丸田は祈るような気持ちだった。

 

訪れたチャンス

 

変化があったのは1月。

日本パラ陸連の強化委員会テクニカルディレクター原田康弘から連絡があった。

コロナ禍で県境を越える移動が制限されている時期だったが、原田はすぐに新潟にやってきた。

原田は、日本陸上競技連盟でも強化委員長を務め、主にスプリンターの強化育成を担ってきた人物で、2016年からパラ陸連に転身していた。

原田は、新潟の冬の練習環境を心配していた。永田が挑戦する選考大会を特別に作る以上、それなりの結果が求められる。結果を出すには雪のある新潟では十分な練習ができないと見たのだろう。原田は、選考大会までの間、永田が宮崎で行われている旭化成の合宿練習に参加することを条件にした。しかし、永田が合宿に参加している間、職場は永田の不在を誰かが埋めないといけなくなる。難しい問題だったが、丸田は迷うことなく永田の派遣を決めた。その決断に応えるように原田はその場で旭化成の宗猛総監督に連絡をし、了解を取り付けた。

「旭化成は、オリンピック選手を何人も輩出していて、陸上選手なら誰でも憧れる会社ですし、宗猛総監督は雲の上の人です。そんな環境で練習するのは、とてもいい経験になりましたが、気後れをして、あまり居心地は良くなかったです」

 

2月28日、永田は、第76回びわ湖毎日マラソンに日本陸連の推薦選手として出場した。

2時間25分23秒。自己ベスト(2時間23分23秒 2015年:古河はなももマラソン)には届かなかったが、この時点でT46アジア記録を更新、世界2位にランクされた。

ゴールした瞬間、男子マラソン日本代表(T46)内定がほぼ決まったと言ってよい。しかし、永田の表情は暗かった。

「たくさんの人のサポートのおかげで、舞台が整えられ、シナリオができていて、あとはシナリオ通りに演じるだけという状況でした。キツイ状況でしたが、だからこそ自己ベスト更新で応えたかった」

「永田くんにとって、びわ湖毎日はキツかったと思います。パラ陸連が日本陸連に働きかけてくれて実現したレースですから、日本代表内定を一発で決めなければならない。プレッシャーがあったでしょう」

 

乾坤一擲。

永田はただ1回のチャンスを見事にものにした。

 

一方でスポーツをめぐる状況は悪化していた。1月7日に発出されていた緊急事態宣言は、3月21日に解除。しかし、4月23日に再び発出された。

こうした中、オリンピックパラリンピックの開催に反対する人の声が強くなった。SNSなどで直接アスリートに開催反対の意思表示をするよう働きかける動きも出てきて、競泳の池江璃花子選手がtwitterで心情を吐露した長文のツイートをするという異例の事態まで発生した。

 

永田が男子マラソン日本代表(T46)に内定したのは、5月10日。

永田は「応援してくれた人たちに良い報告ができた」と喜んだが、オリンピックパラリンピックの開催を巡って、世論は二分されていた。

「中止になるのではないか」永田も丸田もそう考え始めていた。

 

「自分でどうにかできることではない。自分のやることをやるだけ」

永田は毎日2時間かけて20キロを走って、体力の維持を図りながら、マラソントレーニングへの準備を着々と進めていた。

 

「4月から強化指定になったのでパラ陸連からも補助が出るし、今回は東京特別枠で日本パラリンピック委員会からの補助もつきました。コーチ、トレーナー、栄養面のことはすべて補助でまかなえるようになったので、悔いのないようにやれることはすべてやろうと永田くんと話をしました。5月からは仕事を半分にセーブして、6月からは完全に休みにしました」

 

悔いのない準備〜幸せな時間

 

永田は6月から妙高市に入り、本格的なトレーニングを始めた。

自衛隊時代の同僚である大関喜幸にトレーニングパートナーを頼んだ。

大関は陸上自衛隊、愛知製鋼、SUBARUで活躍した陸上長距離の選手。永田が依頼すると大関は快諾、所属するSUBARUも大関を快く送り出してくれた。

さらに7月からは自衛隊時代の恩師・古川一夫がトレーニングを見てくれることになった。

 

「自衛隊時代はとにかくたくさん走っていました。振り返ると、とても幸せで、かけがえのない時間でした。あの時に戻ることができたら、どんなにいいだろうと何度も思っていました。それが今、監督さんがいて、元同僚と一緒に走っている。夢のようでした。戻りたかった時間に戻ることができた。練習はキツかったけれども、幸せな時間でした」

 

緊張の舞台

 

2021年9月5日、2019年5月に新潟県障害者スポーツ大会に出場してから、2年4カ月。永田は東京2020パラリンピックの舞台に立った。

「パラリンピックは独特の雰囲気があって、圧倒されました。今までにない緊張感がありました」

 

レース当日。丸田は施設事務所で職員4人とテレビを見ていた。当初はパブリックビューイングで盛り上げるつもりだったが、コロナ禍でかなわなかった。

「ここまで来たというような高揚感はありませんでした。永田くんもやることはやったし、私たちもできることはすべてやった。あとは見守るだけ、そんな静かな気持ちでした」

 

レースは、ハーフまで横一線の展開。永田はなんとかトップ集団についていったものの、自分の調子が良くないことを感じていた。やがて中国の李朝燕が抜け出し、ブラジルのアレックスダグラス・ピレスダシウバも続いた。30キロあたりで永田は4位に落ちた。

 

「前を走っているのは、世界記録保持者のマイケル・ロジャー(オーストラリア)でした。ここからペースを上げていけるのか、追いつき、追い越せるのか。メダルに届かず、手ぶらで帰ることになったら、どうしよう。サポートしてくれた人たちにどう謝ったらいいのか、そんなことを考えながら走っていました」

 

永田は間もなくペースの落ちてきたロジャーを捉え、3位に上がった。粘りの練習が功を奏した。

「これまでマラソンで、人と競っているという感覚を持ったことはありませんでした。けれども今回、3番をめぐる戦いをして、初めて人と競うという感覚を持ちました」

永田は3番目に新国立競技場に帰ってきた。ゲートをくぐり、視界が開けたところで、左腕を突き上げた。そして、笑顔でゴールイン。2時間29分33秒。銅メダル獲得。

 

もちろん銅メダルという結果に悔しさがないわけではない。自己ベストも更新できなかった。それでも永田が笑顔でゴールしたのは、最低限のことはできたという満足とサポートしてくれた人たちへの感謝の気持ちだった。

「びわ湖毎日のときは、自己ベストを更新できなかった悔しさから笑顔を作ることができませんでした。けどそれは舞台を用意してくれた人たちに失礼なことだと思ったんです。パラリンピックはどんなレースになっても感謝の気持ちを表すため、笑顔でゴールするつもりでした」

 

挑戦が終わって〜新しい課題

 

丸田は永田のゴールを見届けると、「ああ、終わった」と思った。永田を支えたスタッフみんながそう思った。「うれしい」というより、「ホッとした」気持ちだった。

 

永田はレース前、丸田に「このレースが最後」と言っていた。しかし、永田はレース後のインタビューで次の目標を口にした。それを聞いた丸田はひっくり返ったが、同時に「永田務らしいな」と思った。

「パラリンピック日本代表はこれが最後と決めていました。ところがゴールしてすぐに次の目標が出てきたんです」

 

長い戦いを終え、新潟に戻ってくると、取材、表彰、イベント参加や講演の依頼などが永田に降りかかってきた。それらを整理し、対応を決めたのは、丸田だった。

「メダルを獲得できたのは大きかった。障害者スポーツの普及強化に計り知れない効果をもたらしてくれると思っています。今回、東京パラリンピックで障害者に対する社会の気分が変わったように感じています。これまで障害者スポーツの選手は障害者の代表でしたが、永田くんはおらが町の代表になっている。これは大きな違いだと思っています」

 

永田は男子マラソンT46に日本人として初めて出場し、メダリストになった。永田の歩んだ後に道ができる。

「チャレンジする人が出てくれば、私もうれしい。けれども、今のところ、日本にはT46が設定されたレースがありません。国内になければ、海外に行くしかありません。海外のレースに参加するとなると、莫大な費用がかかりますから、チャレンジしようという人が出て来なくなります。健常者もそうなのかもしれませんが、障害者は特に競技者が活躍する上で、経済的な問題が大きいと思っています」

 

実績を残さないと支援が受けられないというのは、健常者も障害者も同じだ。しかし、障害者の場合は補助するスタッフが必要になったり、出場や検査の機会を求めて遠方、時には海外まで足を伸ばさなければならなかったりするため、経済的負担がより大きくなる。障害者はそもそも競技を始めるハードルが高いにもかかわらず、経済的な負担が大きくなれば、競技人口は細っていく。

「国と地方の役割を分ける必要があるのではないかと思います。地方はもっと、これから始めようという人に手厚く、過程を大事にする取り組みをすればいいのではないかと思います。スポーツは障害者にとって、健常者のそれよりもずっと重要なものです。スポーツは障害者がいきいきと生きる助けになります。永田くんの活躍をきっかけに、障害児向けのスポーツ教室がもっとできるといいと思っています」

 

永田はパラリンピックの前、パラリンピック後のウルトラマラソンへの再挑戦を口にしていた。しかし、今はマラソンで決着をつけない限り、次には進めないという気持ちになっている。銅メダルのまま、自己ベストを更新しないまま終わるわけにいかないのだ。

「マラソンの舞台で、自己ベストの更新、世界記録の更新を目標にしたい。パリで決着をつけたいという気持ちが強いです」

 

東京2020パラリンピックで結果を残し、次への期待がかかる永田だが、パリへの道は決して平坦ではない。

「永田くんに今の職場で働きながら、さらに上を目指すトレーニングをしてもらえるかというと難しいのではないかと思っています。永田くんのことは、みんな応援していますが、トレーニングやレースのために不在となる永田くんのシフトを埋める職員の負担が大きくなります。さらに上の結果を出すためにも、ある程度、永田くんがトレーニングに専念できる環境を提供してくれるスポンサーが現れてくれればいいと思っています」

丸田は今、永田の支援者を探している。

 

パラリンピックからしばらく経って、永田の周りの喧噪も落ち着いてきた。

永田は今も毎日20キロのランニングを欠かさない。

それは、次に備えた「不断の努力」というのとは少し違う。

永田は根っからのRunnerなのだ。

しかし、その走りはきっとパリに続いていて、さらに大きな花を咲かせることになるだろう。

 

(追記)

IPC(国際パラリンピック委員会)は、2021年11月19日、2024年パリ大会で22競技、合わせて549種目が実施されると発表した。東京大会よりも10種目多くなったが、男子マラソン(T46)が除外された。大会までまだ紆余曲折があると予想されるが、除外されるのは濃厚な情勢だ。

 

丸田徹(左)と永田務(右)。2人が働く新潟ふれ愛プラザで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

永田務(ながた・つとむ)

◉1984(昭和59)年2月20日生まれ。村上市出身。瀬波小学校6年の時にダイエットのために走ることを始めた。村上第一中学校、村上桜ヶ丘高校時代は陸上部で活躍。卒業後も高田自衛隊で陸上を続け、除隊後もマラソン、ウルトラマラソンで好成績を収めた。2010年12月、勤務中の事故で右腕に障害が残る大けがを負ったが、12年10月、新潟県縦断駅伝競走大会で復活。ウルトラマラソンでは、2015年の世界選手権に出場している。19年4月から新潟市江南区の障害者複合施設「新潟ふれ愛プラザ」に勤務したことがきっかけになって、パラリンピックに挑戦。東京2020パラリンピック男子マラソンT46(切断・運動機能)で銅メダルを獲得した。

 

丸田徹(まるた・とおる)

◉1967(昭和42)年12月22日生まれ。新潟市江南区出身。北越高校卓球部でインターハイ出場。日本体育大学に進んだものの、ケガのため引退した。大学時代に障害者スポーツセンターでボランティアをした経験から、1997(平成9)年、新潟ふれ愛プラザ開設時に新潟県障害者交流センターに就職。以降、障害者スポーツ指導員として活躍するかたわらパラスポーツの国際大会にもスタフとして数多く参加。現在、新潟県障害者交流センター所長、新潟県障害者スポーツ協会副会長。

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