ソフトテニスで高校日本一になった水澤奈央は今春、北越高校を卒業して立教大学に進学した。
体育会ソフトテニス部に入部し、大学でも頂点を狙うとともに、
U-20日本代表としての活躍も期す。
新型コロナウイルスの影響で大学生活は不自由を強いられているが、
「今だからこそできることをやっていきたい」と、これまでと変わらず前を向いている。
強い相手と戦うほど…負けず嫌いの性格が向上心を募らせた
『あなたにとってソフトテニスとは?』
「自分の人生の中で、ないと困るもの。それがあったからいろんな人と出会い、いろんなことを経験できた」。3月3日、もらったばかりの卒業証書を手に彼女は迷うことなく語ってくれた。
彼女がソフトテニスを始めたのは6歳の時。7歳上の姉・志歩がやっていた中条スポーツ少年団(胎内市)での練習を見て、「なんか面白そう」と感じたのがきっかけだった。「スポ少の人たちが楽しそうにボールを打っている表情を見て、自分もやりたいなと思った」
しかし、始めて最初の半年は素振りだけ。芽生えたやる気がこれで萎えてしまっても不思議ではなかった。「でもそれが(後に)生きた」と水澤。
半年後にすぐにボールを打ち返すことができた。基本の大切さを知った。打てるようになると楽しさが倍増していった。
ラリーが続くようになると、次は「うまくなりたい」、やがて「優勝したい」という欲求も高まっていった。小学校低・中学年には早くも先輩とダブルスを組んで県大会で優勝。「スポ少はとにかく試合を数多くやるんです。それで力が付いたと思います」。北信越や全国の大会にも出場し、強い相手と戦えば戦うほど「もっとうまくなりたい」と感じた。
負けず嫌いの性格が、向上心を募らせた。
中学3年の2016年には県中学総体のダブルスを制し、全国中学総体ではベスト8まで進んだ。
U-14に選ばれたことで芽生えた日本代表としての自覚
ソフトテニスは、1メートルほどの高さのネットを挟んでゴムボールを打ち合う、日本発祥のスポーツで軟式庭球、軟式テニスとも呼ばれている。
公益財団法人日本ソフトテニス連盟のホームページ(http://www.jsta.or.jp/)によれば、現在、日本国内では約54万人の競技人口を数える。試合はダブルスやシングルスで行われ、個人戦と団体戦がある。1試合は7ゲームマッチ(4ゲーム先取)または9ゲームマッチ(5ゲーム先取)、1ゲームは4ポイント(カウントはゼロ、ワン、ツー、スリー)先取で決まる。
1880(明治13)年頃に英国から横浜居留地に伝わり学生に広まった硬式テニスが、1884(明治17)年に日本独自のゴムボールを使うテニスに生まれ変わったとされる。1975(昭和50)年にはハワイで第1回世界選手権大会が開催。特に東アジアや東南アジアの地域で盛んなため、世界選手権大会の他、アジア選手権大会、アジアカップ、アジア競技大会が、4年に1度開催される国際大会としてメジャーになっている。
2016年、水澤はU-14日本代表に初選出された。「選ばれてからは日本代表としての自覚を持って練習してきました」。
北越高で培われた心技体。高校女王、史上初の連覇を達成
北越高に入ると、顧問の津野誠司監督がさらなるトップクラスの選手に育ってほしいと、特に体力面の強化を課して水澤の成長を後押しした。
「小・中と違って、高校ではダッシュを何本も繰り返したりとか、フィジカルトレーニングがとにかくきつかった。でもそれもテニスのため、と心に決めてやっていました」
体に加えて、技と心にも磨きをかけた。
高校2年で全国から選ばれたトップ選手による『ハイスクールジャパンカップ女子シングルス』を制覇。全国高校総体では団体戦準優勝も勝ち取った。
打倒・水澤を掲げるライバルたちから追われる立場になった翌年は、「津野先生から‟相手がどんな戦術できても対抗できるように”と、普段からいろんな戦術を考えながら練習していました。日本一に(再び)挑戦するんだという気持ちで」。
ボールを打つ際に斜めの回転をかけて軌道を曲げるツイストというショットがある。直線的な力強いシュートボールやボールを高く上げて返すロビングといった正攻法が得意な水澤は、変化技が「どちらかというと嫌い」がゆえに、ツイストが苦手だった。しかし津野監督とも話し合い、日本一になるためには不可欠と考え、習得に励んだ。
ディフェンディングチャンピオンとして臨んだ昨年6月のジャパンカップ決勝ではそのツイストがさえて、大会史上初の大会連覇という栄冠を手中にした。
「津野先生は、コーチとしてもそうですし、先生としても尊敬できる方です。テニスだけでなく人間的な部分でも強く教えてくださいました。人間性、テニス、どちらも先生のおかげで成長できました」
続く9月に行われた『JOC全日本ジュニアソフトテニス選手権U-20女子ダブルス』でも、東京女子体育大学1年(当時)の吉田澪奈とペアを組んで優勝した。
心技体は充実し、日の丸に対する意識がさらに頭をもたげ、U-17、U-20日本代表の階段を駆け上がった。
素晴らしい先生たちに巡り合えた。「中学校の先生になって、ソフトテニスも教えたい」
水澤には強豪の実業団クラブや関東学生1部リーグの大学から勧誘があったが、熱心に誘ってくれた同2部リーグの立大を選んだ。近年力を付けてきている女子は、一昨年のインカレ(文部科学大臣杯全日本大学対抗選手権大会)の団体で準優勝、昨年も3位になっている。
水澤は「インカレで団体優勝、1部リーグ昇格に貢献したい」と語る。
立大に進んだ理由はもう一つある。「教員免許を取ることが目標」。
その理由について水澤は、
「津野先生の影響もそうですが、両親が中学の教員をやっていて、それが先生になろうと思ったきっかけ。また、築地(ついじ)中学の先生方全員もすごく良い先生ばかりだったんです。中学校の先生になって、ソフトテニスも教えたい」。
身長150㎝の小柄な体に、あふれ出そうなほどたくさんの楽しい思い出と大きな希望が詰まっている。
3月20日に実家を出て一人暮らしを始めた。早速練習に参加したものの1週間もしないうちに活動中止となり、大学は4月の入学式を取りやめ、キャンパスへの学生の入構は今も禁止されている(5月29日時点)。今は、部の仲間とはオンラインを通じてしか会えていない。4月30日からやっと始まった授業も、7月下旬まではオンライン授業のまま。全国の大学生の多くがそうであるように、華やかなキャンパスライフは彼女も皆無だ。
幸いにも、ソフトテニス部に入った同級生が近所にいるので孤立はしていないという。「練習は、テニスコートも使えないので、もっぱら家の中でできることをやっています。一人で黙々と(笑)。それにもともと一人が嫌いな方ではないので」と、苦境も笑い飛ばす。
春季関東大学リーグ戦が中止となり、体育会ソフトテニス部の活動再開は今のところ夏まで難しそうだ。
「テニスはもちろんしたいですが、こういう状況なのでできないことを嘆いても仕方ない。今だからこそできることをやっていきたい。いつ再開してもすぐに(試合が)できるようにトレーニングをやり、そして勉強にも力を入れます!」
電話の向こうの声は、3月3日に高校で取材した時と同じように弾んでいた。
世界規模の災禍の中でもびくともしない、ソフトテニスを通して培われた心の強さ。掲げた目標も彼女ならきっと手に入れるはずだ
profile水澤奈央(みずさわ・なお)◉2001(平成13)年5月2日生まれ、胎内市出身。6歳から中条少年スポーツ少年団でソフトテニスを始める。築地中学校3年で県中学総体・個人(ダブルス)で優勝、全国中学総体ではベスト8。北越高校1年春からレギュラーとなり、2年時にはキャプテンとしてチームをけん引し、全国高校総体の団体戦準優勝に輝いた。U-14・17・20と年代別の日本代表にも選ばれている。現在は立教大学文学部文学科(日本文学専修)1年。