「アジアのチームで戦うという選択肢を、もっと知ってほしい」
<前回の連載①はこちら>
サッカーに親しむ中で、プロへのあこがれを強くした小学6年の此村大毅。その後、中、高、大学で成長と挫折を繰り返しながら、サッカーとの関係は強く、分厚くなっていった。これまでの経験の全てが、今の自分を形成している。無駄な物は何一つない。タイでプレーする此村はそう振り返る。
(Standard新潟Web限定記事)
■「自信」が「おごり」に
地元の南浜中学校(新潟市北区)に上がった私は、もちろんサッカー部に入部しました。そこで見た上級生のサッカーに衝撃を受けたことを今も覚えています。それまでサッカーに加えて空手も続けてきた私でしたが、まだ体も小さく、彼らとの差を感じずにはいられませんでした。
そんな中1生活のスタートでしたが、全国中学校サッカー大会では予備登録メンバーに入ることができ、チームは県大会で準優勝。北信越大会ではベンチ入りも経験できました。さらに翌年からはレギュラーとしてプレーでき、全国大会にも進出。上り調子で迎えた中3で県大会敗退は残念でしたが、得るものも多かったと感じた3年間でした。
さて、高校からのサッカーですが、ありがたいことにアルビレックス新潟ユースでサッカーを学ぶという選択肢もありましたが、最終的には進学した新潟市立高志高校でサッカーを続けることにしました。決断の理由は、尊敬する地元の先輩が高志高校に通っていたこと、また、高志高校で選手権を目指し活躍することがプロへの近道ではないかと考えたからです。
目標は高1からトップチームで力を出すこと。しかし実際は、チームの中心に加わることはできませんでした。同級生はすでにチームの軸で活躍していたため、とても歯がゆかったです。その一方でチームは全国への切符を手にし、私もピッチに立つことができたのは良い経験でした(短い時間でしたが)。サッカーをする上での自信にもなりました。
ただ、悪いことにこの自信が過信に変わってしまい、2年、3年ではいわゆる「てんぐ」に。チームメートに迷惑をかけてしまったことも一度や二度ではありません。そして、全国大会を目指しプロになるという、高校進学当時の目標は、いつの間にか消えてしまいました。
■思い出した「あの頃のサッカー」
夢破れた高校時代でしたが、その後、将来は先生やサッカーの指導者になり、新潟のサッカーに貢献したいという気持ちが芽生えてきました。プロは諦めても、やっぱりサッカーとは離れたくなかったのです。
指導者になるためには、さまざまな知識や考え方を身に付ける必要があると考え、大学進学を決めました。選んだのは、埼玉県川越市の東京国際大学(埼玉県川越市)です。
というのも、私が入学するタイミングでサッカー部の活動が本格化し、さらに元Jリーガーの指導者に学べることも大きかったです。また、日々学び、過ごすための環境や設備といった条件の良さにも納得できました。
大いに勇んで始まった大学生活。サッカー部では幸先よくトップチームからスタートを切りました。しかしです。けがを引きずってしまいBチームへ降格。さらに体も思うように動かなくなり、そこから這い上がれるような強いメンタルもなく…。気付くと1年でサッカー部を退部していました。
半年以上サッカーから離れた生活を送りました。サッカーがない暮らしの中で、壁を乗り越えられない中途半端な自分が情けなかったです。でも、サッカーを失ってから、サッカーが大好きな自分を見つけたことも、まだ事実です。そうなると、もう一度、思い切りサッカーをやりたいという気持ちが湧いてきました。
大学2年の終盤から社会人チームを探し始め、いくつかのチームの練習に参加してみました。その中で出会った川高蹴球会(現・埼玉県社会人サッカーリーグ西部 川越市ブロックリーグ1部)では特に親身になってもらい、ボールに触れるにしたがって「仲間とプレーするサッカーの喜び」が蘇ってきました。小学6年の時、父の勧めでチームを移って味わった、あの感覚でした。
今まで所属した全てのチームに思い入れがあり、また全てのチームに感謝しています。特に、私の気持ちを立て直すきっかけをくれた桃山クラマーズ、そして川高蹴球会とは今でも交流があり、感謝すると同時にいつか恩返しができたらなと思っています。(つづく)
タイは今、新型コロナウイルスの影響で、日本と同じく社会のさまざまな部分が活動自粛を余儀なくされている。スポーツも例外ではなく、此村がプレーしていたリーグもシーズン途中の4月末で中止になった。思い切りスポーツしたくてもできないという状況を、此村もタイで乗り越えていく。次回以降はタイのサッカーについて綴る予定だ。
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