帝京長岡バスケ 柴田勲監督インタビュー 「まず、いいチームを作る。いいチームは必ず強くなる」

バスケットボール 2021/12/31
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text : matsushima satoshi
松島 聰

 2009年に帝京長岡高校へやってきた男子バスケットボール部監督の柴田勲は、もともと野球少年だったが、不思議な縁に導かれるようにしてバスケットボールの指導者になった。強いチームを作る秘訣は、まず、いいチームを作ることだという。
 
 

「大切な子どもさんを預かるのだから、選手だけではなく、保護者に対しても責任がある」


 
 

 「柴田勲」というと、ある年代以上の人はジャイアンツで1960年〜70年代にリードオフマンとして活躍した赤手袋の柴田勲を思い出すだろう。しかし、今、「柴田勲」といえば、少なくとも新潟県では、今年の夏、インターハイで帝京長岡高校男子バスケットボール部を準優勝に導いた柴田監督を思い浮かべる人の方が多いかもしれない。
 柴田は、1969年7月20日、東京都大田区に生まれた。運送業を営んでいた父は、当時よくいた「ジャイアンツが勝っていれば上機嫌というお父さん」。熱狂的なジャイアンツファンだった。「勲」という名前は、そうしたことが影響した。柴田はその後、江戸川区に移り、中学校は小岩第一中学に通った。
 
 物心ついたときからグラブとバットを持たされ、野球をしていたので、何の疑いもなく中学校でも野球部に入るつもりだったが、入学してみると、小岩第一中学には野球部がなかった。途方に暮れているうちにバスケットボール部に勧誘され、気圧(けお)されて友人と仮入部の手続きを取った。しかし、野球がしたかったので、すぐに辞めるつもりだった。
 だが柴田は結局、3年間バスケットボールを続けることになった。辞めることができなかったのは、先輩が怖かったからだ。そんなふうに始めたバスケットボールだったが、やっていくうちに面白くなってきた。チームは力を付け、やがて都の大会で優勝するまでになった。3年生になってスタメンで出るようになるとますます面白くなって、のめり込んだ。
 
 高校は、誘われて関東第一高校に進んだ。
 「関東第一は、当時まだ強豪ではありませんでしたが、これからチームを強くしていこうという時でした。けれどもなかなか強くならなくて、上位に行くことはありませんでした」
 大学は国際武道大学に進んだ。
 「当時できたばかりの大学でした。チームの雰囲気が良くみんなでインカレに行こうと言って盛り上がって、私がキャプテンの時にインカレに出場することができました。充実した学生生活でした」
 大学卒業後、関東第一時代の恩師の紹介で、帝京高校に赴任することになる。
 「卒業後は、漠然と父がやっていた運送業を継ぐことになるのかなと思っていました。大好きになっていたバスケットボールともお別れになるものと覚悟していたのですが、父に別のことをやれと言われてしまって、思惑が外れました。そんなところに、帝京高校に行かないかという話が舞い込んできたんです」
 
 92年、柴田は帝京の教師になり、男子バスケットボール部のアシスタントコーチになった。
 「帝京高校には15年間お世話になりました。アシスタントコーチという立場でしたが、都の大会で準優勝、ベスト4という結果が出るようになって、指導者として一本立ちしたいと思うようになったころ、日本航空高校(山梨)から、監督で来ないかという話をいただきました」
 
 2006年、37歳の時、柴田は意気揚々と山梨に赴任した。そしてすぐにチーム作りを始めた。
 山梨に行って2年目、帝京高時代の先輩・浅川節雄から連絡があった。浅川が校長として赴任した帝京長岡に来ないかというものだった。先輩の申し出を断るわけにいかないと感じたが、チーム作りが始まったばかりだったので、1年だけ待ってくれと答えた。少なくとも3年はやらないと、誘ってくれた学校にも集まってくれた選手たちにも申し訳が立たない。
 
 

profile柴田勲(しばた・いさお)◉1969(昭和44)年7月20日生まれ、東京都出身。小岩一中でバスケットボールを始め、国際武道大でインカレ出場。大学卒業後に保健体育教師となり、2009年に帝京長岡高へ赴任。13年、県総体初優勝、インターハイ出場。今年のインターハイで準優勝の過去最高成績を残した。


 
 
 09年、柴田は日本航空高を後継者に託して、帝京長岡に移った。
 帝京長岡では本格的なチーム作りを翌10年から始めた。長岡市のバスケットボール大会を中心に精力的に試合を見に行って、指導者とのネットワークを築き、有力な選手に声を掛けた。しかし、反応は芳しくなかった。
 「最初に誘った選手は、長岡大島中学の高田大地君でした。当時、新潟県の高校バスケットボールは、新潟商業高校1強時代で、力のある選手は新潟商業に行くか、県外の強豪校に行くという時代でした。そんな時に、『帝京長岡でバスケをやらないか』と言われても、言われた方は『はあ?』という反応になります。当時のチームは2回戦も勝てない弱小チームでしたから」
 
 柴田は一人一人丁寧に、時間を掛けて説明し、理解してもらうように努めた。そうして、11年から、1人、また1人と帝京長岡に入学してくれる選手が出てきた。
 11年の県総体は、3回戦で中越高校に敗れた。12年になるとBSN杯で決勝に進出。県総体もウインターカップも新潟商業に敗れたものの準優勝という結果が出た。チーム作りに取り組んでから4年。異例とも言えるスピードでチームは強くなった。
 13年に県総体で初優勝。インターハイに出場。3回戦まで進んだ。その後、県、北信越では、優勝争いの常連校となり、14年に開志国際高校が開校してからは、帝京長岡、開志の2強時代が続いている。
 今年のインターハイでは決勝に進出。中部大学第一高校(愛知)に敗れたものの、地元開催の大会でその力を全国に示した。
 
 

帝京長岡のスタンドからの応援は日本一。一体感のある応援が選手の背中を押してくれる。 無観客試合を余儀なくされる今のコロナ禍でも、心は一つだ


 
 
 柴田はどのような方法でチームを強化しているのだろうか。
 
 「明るく元気なチーム作りを目指しています」
 
 やや拍子抜けするような答えが返ってきた。
 「現在、チームには75人の選手がいます。決して上手な選手ばかりでなく、高校からバスケを始めたような選手もいます。そうした選手も含めて、一体感のあるいい雰囲気を作りたいと思っています。日本一になる環境なのかというと、そうではないかもしれません」
 柴田は『まず、いいチームを作る。いいチームを作れば結果が出る』と考えている。
 「試合中、私はコートの外で大きな声を出します。それは選手には聞こえているかもしれないけれど、届いていないかもしれない。しかし、コートの中の選手同士の声は確実に選手の心に届きます。いいチームであれば、それができる」
 コロナ禍でほとんどの大会は無観客試合となり、保護者は会場に入れなくなった。さらに選手の入場も制限され、人数を絞ることを余儀なくされた。チーム全員の一体感を大切にしてきた柴田にとって、入場する選手を選抜することは、断腸の思いだったという。
 
 「高校の3年間は、短いけれども重要な時間になります。バスケットボール部で培ったものを生かして、与えられた場所で精一杯努力し、役に立つ人間になってもらいたい。選手たちの卒業後の人生が豊かになるようにというのが私の願いです」

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