Runner—永田 務

陸上競技 2020/07/21
2019年4月から勤務する新潟ふれあいプラザ(新潟市江南区)前で
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text : matsushima satoshi
松島 聰

走るのが好きだった。

目標を見失い、漠然とただ走っていた時期もあったが、走るのは止めなかった。

不慮の事故で右手に障害が残っても、永田は走り続けた。

それが自らの存在理由であるかのように。

 

永田務は、1984年2月、村上市に生まれた。

走り始めたのは、村上市立瀬波小学校6年生のころ。ダイエットが目的だった。

 

小学6年生のころの永田

 

1996年、村上第一中学入学。陸上部に入部。

1,500m、3,000mの選手だった。

 

「3,000mで下越大会を優勝し、県大会に出場しましたが、県大会では、入賞できるレベルではありませんでした。県大会3,000m決勝では確かビリから2番目だったと思います」

 

中学時代は1,500m、3,000mを走った。

 

1999年、村上桜ヶ丘高校に進学した後も陸上を続けた。

 

「1、2年生の時はなかなか成績を残すことができませんでしたが、3年生の時に出場した県大会の1,500mで6位になりました。これが最高成績でした。5,000mは15分23秒がベストで、県大会では通用しないレベルでした。後輩に速い選手がいたので、全く目立ちませんでした」と、永田は話すが、平成13年度新潟県陸上競技記録集」によれば、永田は男子1,500mで一般に混じって、年度11位の記録を残している。タイムは4分02秒73であった。

 

高校3年生の時、当時、箱根駅伝にも出場していた関東の大学に進学できるという話があり、永田は箱根出場に夢を膨らませた。両親に相談すると、父親から「今の記録で、箱根を走ることができるのか」と言われた。話し合った結果、最後の大会で5,000mを14分台で走ることができたら、進学を認めるということになった。

永田は、「やってやるぞ」と意気込んで練習をした。

 

「陸上部の監督から、『お前は練習ではいい。練習通りに走れば、結果は出る』と言われていました。私はいつも本番に向けて、うまく調整ができないというか、練習で頑張りすぎて、レース前に疲れてしまうんです。この時もそうでした」

 

最後の記録会で14分台を出すことができなかったので、永田は、潔く大学進学はあきらめた。自分なりに頑張ったつもりでいたが、結果が出なかったことで、自分の力はこんなものだったのかとショックを受けていた。

 

「そこまでの力だったんだ。自分に対するあきらめのような気持ちがありました。それでもやっぱり走りたい、陸上を続けたいと思い、どこかで陸上競技を続けられないか探しました」

 

永田は、何かと気にかけてくれていた前の陸上部の監督(佐藤忠春氏2013年5月18日没)の紹介で、高校卒業後、2002年4月から、高田自衛隊(陸上自衛隊高田駐屯地)に勤務することになった。高田自衛隊には陸上部があり、実業団の競技会にも出場していた。

 

「高田自衛隊時代は、上司の理解があって、どうしてもという訓練以外は、陸上の練習に専念することができました。練習量が自分たちの武器だとコーチに言われて、ひたすら練習しました。とても恵まれた環境だったと思います」

 

同期に駒形英也選手(東京学館新潟高—関東学院大学—高田自衛隊—自衛隊—防衛省)、大関喜幸選手(海洋高—高田自衛隊—愛知製鋼—SUBARU)がいた。

駒形は、この年(2002年)の箱根で9区を走った実力者で、大関は永田と同学年ながら、入隊直後に5,000m14分台を出していた。

永田は、同期で同部屋の2人を意識して、練習するうちに記録が伸びてきた。

 

高田自衛隊時代の永田

 

「1年目の5,000mは、15分台でしたが、練習の成果が出て、2年目は14分台で走れるようになりました。14分という数字にはこだわりがありました。記録が伸びてくると、見えてくるものが違ってきます。例えば、日体大の記録会では、タイムが良くなると、後ろの組で走るようになります。そうすると、一緒に走る選手が箱根に出場していた有名選手になったりします。そういう選手と競えるようになったり、高校時代に全く歯が立たなかった選手に勝てるようになってきて、走ることがどんどん楽しくなってきました」

 

永田は、2003年12月14日の日体大長距離記録会で5,000m14分34秒57のタイムで走って、高校時代にどうしても超えられなかった壁をクリアした。2006年の同じ記録会では、14分17秒61で走り、さらに記録を伸ばしている。このころの永田は、自衛隊での猛練習で確実に力を着け、自信を持ち、楽しむ余裕さえ出てきている。

永田は、このころ、1,500m、5,000m、10,000m、20kmロードレース、ハーフマラソンでも好成績を残している。

 

初マラソンは、2007年3月4日。第62回びわ湖毎日マラソンだった。このレースは、23.5度を記録した暑さで、有力招待選手が次々とリタイアする中、永田は2時間28分53秒で走り抜き、50位に入った。優勝は、タンザニアのサムソン・ラマダニで2時間10分43秒、日本人最高は、一般参加の久保田満(旭化成)で6位、2時間12分50秒だった。

 

競技生活は充実し、これからさらに練習を積んで、好成績が望めるという時だったように見えるが、この年、永田は自衛隊を除隊する。

 

「昇任試験に合格できないうちに3期6年が経とうとしていて、いづらくなったということもありましたが、当時は、外の世界に出れば(自衛隊を辞めれば)、時間に縛られず、自由に過ごせるという思いが強く、そういう生活に憧れていました」

 

永田は自衛隊を辞めた後、警備の仕事などをしながら、いくつかの競技会に出場した。新潟県選手権の10,000mでは優勝している。

 

2008年6月、村上市陸上競技協会の紹介で村上市の企業に職を得た。自衛隊時代のように練習することはできないが、競技会や記録会に出場することは認められていて、交通費も負担してもらえた。しかし、少なくなった練習量は、徐々に成績に表れた。

 

「このころは、目標を失っていました。一緒に練習をする仲間もいませんでしたが、走ることはやめられなくて、ただ、漠然と走っていました。このころ、高い目標を持つことができたら、トラックでもマラソンでももっと高いところに行くことができたかもしれないと思います。自衛隊を辞めたことを後悔しました」

 

そんな中、永田は、ウルトラマラソンに出会う。

 

「ウルトラマラソンという競技があることをランニング雑誌で知りました。これだ!と思いました」

 

永田には、ウルトラマラソンで日本代表になるという目標ができた。

 

ウルトラマラソンとは、42.195kmを超える道のりを走るマラソンのことで、一定の距離のタイムを競う競技と、一定の時間で走る距離を競う競技がある。100km走や24時間走は世界的に行われている競技で、IAU(国際ウルトラランナーズ協会)主催の世界選手権も開催されている。

 

2010年4月25日、永田は、チャレンジ富士五湖ウルトラマラソン(72km)に出場。5時間20分19秒で2位という好成績だった。しかし、永田は6月27日に北海道で行われる「第25回サロマ湖ウルトラマラソン」に照準を合わせていたので、「それほどうれしくはなかった」という。しかし、自衛隊を除隊して以来、目標がはっきりとしないまま漠然と走っていた永田にとって、新しくできた目標に確かな手応えを感じることができたのではないだろうか。

 

サロマ湖ウルトラマラソンは、ウルトラマラソンでは初めて日本陸連公認レースとなった大会で、2005年にはIAUワールドカップとして開催されるなど、日本では最も権威ある大会だ。ちなみに100kmの世界記録は男女とも日本人が保持(2020年7月現在)していて、ともにこの大会で樹立された記録だ。

風見尚(6時間9分14秒)2018年6月24日(第33回大会)

安部友恵(6時間33分11秒)2000年6月27日(第15回大会)

 

キロ4分ペースで走れば、6時間40分。永田はそれほど難しいことではないと考えていた。しかし、70キロを過ぎたころから、永田の足は重くなり、ついに走ることができなくなった。

 

「70キロ過ぎからは、本当にキツかった。ウルトラマラソンをなめていました。リタイアしたことを電話で両親に報告すると、『もうやめてしまえ!』と怒鳴られました」

 

同じ年の11月28日、第30回つくばマラソンに出場。3位に入った。タイムは、2時間27分36秒。初マラソンの2時間28分53秒を上回るタイムだった。

 

「自衛隊を除隊してから、記録は落ちるばかりだったのですが、マラソンでは自己ベストを更新することができました。自衛隊時代の恩師(古川一夫)に報告すると、とても喜んでくれました。この時、(マラソンは)やれるんじゃないかという手応えがありました。次を走るのが楽しみになりました。びわ湖毎日マラソンに出場しようと決めました」

 

富士五湖ウルトラマラソンで好成績を収め、つくばマラソンでは、自己ベストを更新。自衛隊を除隊して以来、つらい時期を経験してきただけに、永田は充実した気持ちでいた。びわ湖毎日マラソンに向けて、意気込みも大きくなっていた。

しかし、つくばマラソンから9日後の2010年12月7日。永田は勤務中の事故で大けがを負ってしまう。

 

「その日は特に寒い日で、何枚も重ね着をした上に、さらに分厚いカッパを着込んでいました。おまけに、その日に限って、一人でアルミ缶とスチール缶を分別する機械で作業することになったんです。作業をしていると、スチール缶が機械に引っかかって、カランカランと音を立て始めました。それがすごく気になったので、停止ボタンを押さずに、たたき落とそうとしました。その時、カッパが機械に挟まって、ものすごい勢いで引っ張られました。そして、聞いたこともないような音とともに右手首から肘までが巻き込まれていったんです。一瞬の出来事でした」

 

永田は右腕に重傷を負い、村上市内の病院に搬送された。

 

右腕に重傷を負い村上市内の病院に入院した

 

「大きなけがをして、もちろん激しい痛みがありました。けれども、現実逃避をする気持ちの方が強かったんです。医師が傷の処置をしているときも、私は私の右腕を見ようとしませんでした。そんな態度を医師にとがめられ、改めて傷を見ると、ひどい状態で、目の前が真っ暗になりました」

 

永田の右腕は、開放骨折といって、骨が飛び出ている状態だった。

飛び出ている骨を元の位置に戻し、プレートで止めた。

医師から、「化膿したら、切断するしかない」と言われた。

 

「熱や身体の変調に恐怖を感じていました。腕がなくなってしまったらどうしようと考える一方で、この痛みや苦しさから逃げるために、いっそ切断してしまった方がいいとも考えていました」

 

永田は最初の病院で3回、2011年3月に新潟市内の病院に転院して、さらに7回、計10回の手術をした。

 

「けがをしたばかりのころは、もう一度走れるようになるだろうかなどと考える余裕は、全くありませんでした。これから先のことを考えると、暗い気持ちになっていました」

 

最初の病院の看護師から勧められて書き始めたという永田のブログ(https://ameblo.jp/1984-0220/)には、けがのことで揺れる永田の気持ちが綴られている。やがてリハビリが進むに従って、永田は、「自分は走ることに希望を見いだすしかない」という気持ちになっていく。そして、再び走るために、病院内を歩き始める。

 

「朝は誰もいないロビーを60分、リハビリの後、屋上に行って、さらに60分歩きました」

 

永田は、さらに医師の許可を得て、競技場で走り始める。

ウルトラマラソン100kmで日本代表になるという夢が永田の背中を押していた。

ブログに「電撃的復活をしてやる。三年間強く思っていれば、必ずやれる」と綴っている。

 

「入院中に走ってみて、スピードが出ないと思いました。右腕が振れないので、仕方がありません。けがをしたことで、生まれ変わりたいと思っていたので、トラックをあきらめ、ウルトラマラソンに集中することにしました。もともと『これだ!』と思って、出場したウルトラマラソンで途中棄権したことがずっと気になっていました。トップのままリタイアしたときは、足の痛みが原因でした。もう走れないという痛みだったはずなのに、バスでスタート地点に戻るころ、痛みは消えていました。絶対に走りきるという気持ちが足りなかったんです。けがをしたことで、走ることをやめたら、自分には本当に何もなくなってしまうと思いました」

 

復帰戦は、2012年10月20日、第65回新潟県縦断駅伝競走大会。仲間たちがお膳立てをしてくれて、村上市代表として、15kmのアンカー区間を走った。区間7位。村上市は、11時間14分44秒で13位だった。

 

「その時点で精一杯の走りができたので、気持ちよかった。けがをする前の自分に戻りつつある自分の変化がうれしかった」

 

2013年1月。永田は、サロマ湖100kmウルトラマラソンを照準に、月1,000kmの走り込みを始めた。

 

2013年5月、チャレンジ富士五湖72kmに出場。終盤まで2位だったが、コースアウトして、リタイアした。しかし、サロマ湖に向けて良い感触をつかむことができた。

 

2013年6月30日、サロマ湖100kmウルトラマラソン。この大会は、IAU100km世界選手権2013日本代表選手選考会を兼ねていたが、開催国の情勢不安で代表派遣が見送りになり、代表選考レースではなくなってしまった。永田は少し残念だったが、「電撃的復活」を示すため、懸命に走った。タイムは、6時間44分33秒。優勝した能城秀雄の6時間37分16秒、2位の重見高好の6時間41分44秒に続き、3位だった。トップレベルのサロマ湖大会で3位ということは、実質的に日本で3番目ということであり、世界ランクでもいきなり5位にランクされた。

 

「けがをしたときに、一番悲しませたのは、家族でした。手術を受けているとき、母親が泣き叫んでいたことを聞き、胸が苦しくなりました。ここで走りきって、よい結果を出して、家族に『自分はもう大丈夫だ』と言って上げたかった」

 

永田にとって、これまで、走ることは、時間との競争だった。自分が何者かであることを示すために、自己ベスト、順位にこだわりがあった。しかし、このレースは、両親を安心させたいという思いで走った。永田は、けがを乗り越え、強いランナーになった。

 

2014年1月25日、初めてトレイルレースに挑戦。アメリカ・アリゾナ州フェニックスで行われたCOLDWATER RUNBLE 100MILERに出場し、100マイル(160km)を16時間14分で走って、2位。

4月20日、チャレンジ富士五湖72kmを4時間52分59秒で走って、優勝。

6月29日、サロマ湖100kmウルトラマラソンに出場したものの、「信じられないほど走れなかった」。

10月12日、えちご・くびき野100kmマラソン。これまでの記録7時間12分49秒を大幅に更新する6時間58分30秒で走り、優勝。

 

2015年6月28日。サロマ湖100kmウルトラマラソンに出場し、2位。タイムは6時間36分39秒だった。

 

「残り5kmでかわされて2位という結果でしたが、2013年よりも7分ほど速く、自己ベストでした。日本代表として、オランダの世界大会に行くことになりました。周囲から期待されていたので、ホッとしました」

 

2014年から、永田は、トレイルランニングを始め、徐々に軸足をトレイルに移していく。

前述した2014年アリゾナ州のCOLDWATER RUNBLE 100MILERを皮切りに、香港など海外のレースに参加した。2017年、18年は、国内大会が中心となり、2018年5月12-13日に行われた阿蘇ラウンドトレイルでは、15時間32分10秒で2位になっている。

 

「けがをした後、村上の会社に戻り、仕事をしながら、競技に復帰しました。その後、走ることをメインにした生活がしたくて、東京へ行って、ランニングの練習会とか、セミナーとかレッスンを企画して、5年くらい走ることを仕事にしていました。このころは、大学を出たばかりの練習仲間と毎週30km走をしたり、楽しみながら練習ができていました。力まないで本番に臨めたので、このころのレースの結果は良かったと思います」

 

東京での暮らしは楽しく、充実していた。

しかし、結婚を機に永田は新潟に帰る決意をする。

以前から面識のあった社会福祉法人新潟県身体障害者団体連合会の丸田徹を頼ると、トントン拍子に話が進んで、丸田の勤め先に就職することが決まった。

 

2019年4月。新潟市江南区亀田の「新潟ふれ愛プラザ」で勤務を始めた。

受付業務、プールでの監視業務、体育館、トレーニング室でのサポート業務のほか、陸上教室を受け持っている。

 

「プールでも、トレーニング室でも、色んな障害を持った方が真剣にリハビリに取り組んでいます。そういう姿を見ると、自分の励みになります。自分も障害があるので、経験を踏まえて話し合うこともできます。新しいステージに立ったような気がしていました」

 

障害者福祉の仕事に携わるようになって、変わったことがある。それは自らが障害者スポーツにチャレンジすることだ。

 

「新潟に戻ってくるのに当たって、新しい仕事をしっかりやりたいという気持ちが強かったので、自己ベストを更新するために身を削るような競技者生活からは引退するつもりでした。私は障害者3級ですが、障害者福祉の現場に来るまで、障害者スポーツは縁遠い世界でした。「やってみたら」と言われて始めましたが、まさか自分が障害者スポーツをするとは思いませんでした」

 

障害者スポーツには「クラス分け」がある。

障害には様々な種類や程度があり、それらが競技結果に影響しないように、同程度の障害で競技グループを作る必要がある。原則として、クラスを持っていなければ、競技会に出場し、記録を公認してもらうことはできない。

永田が取得を目指すのは、T46というクラスで、片側の腕が切断されていたり、先天性の奇形があったり、可動域が狭かったり、筋力が低下していたりする障害を持っているクラスである。

 

「障害者スポーツの『クラス分け』のことすら知りませんでした。まずは、5月の障害者の新潟県大会に出場することになって、1,500mに出場しました。この時は検査がありませんでした。7月、東京・町田の関東パラではT46クラスと判定され、1,500m、5,000mを走りました」

 

永田はその後、12月に、IPC(国際パラリンピック委員会)登録に必要なMDF(Medical Diagnostics Form)を作成してもらうため、障害者競技の第一人者が勤務する和歌山県立病院に検査入院した。

永田の場合、障害によって、腕の筋力が低下していることは明らかなのだが、低下しているのが肘から下と診断されると、T47というクラスになり、100m、400mにしか出ることができない。マラソン競技のあるT46クラスと認定されるには、障害によって肘から上も筋力が低下していると診断されなければならない。

筋電図を撮った結果、腕神経叢損傷という障害が原因で肩口から筋力が低下しているという診断。T46クラスに認定された。

さらに3月、国際大会に出場するためのIPCのクラス分けを取得するため、永田はオーストラリア・クイーンズランド州に渡った。

 

「クイーンズランドに行ったとき、すでに日本では神経質な動きが始まっていましたが、現地ではまだマスクをしている人もいませんでした。まさか、こんなことになるとは思いませんでした」

 

クイーンズランドでT46クラスに認定

 

永田は、クイーンズランドで、障害者の国際大会、マラソン競技に出場することが可能なT46クラスを取ることができた。しかし、2019年12月に中国・武漢市で報告された新型コロナウィルス感染症が世界中に拡散し、日本でも3月下旬以降、感染者が急増した。3月24日、東京オリンピックの1年程度の延期が発表され、4月7日、政府は7都道府県対象に緊急事態宣言を発出。16日には対象地域を全国に広げた。東京パラリンピック、マラソン日本代表にハイパフォーマンス枠で選出されるため、出場予定だった「かすみがうらマラソン2020」(茨城県土浦市)は中止になった。

 

「今後の代表選考は、世界ランキングで決めるという話になっているようですが、いつ、どんな大会が行われるのか、まだ分かりません。東京オリンピック/パラリンピックが来年、行われるかすら分からない状態ですから、今、できることは練習することだけです」

 

パラスポーツには全く知識のなかったが、周囲に勧められ、期待を背負って、パラリンピック出場という階段を上りはじめた永田。クイーンズランドでT46クラスを取ることができて、後は、かすみがうらで結果を出そうというときに、新型コロナウィルスの感染拡大。大会が中止になってしまった。気落ちするようなことはなかっただろうか。

 

「いい準備ができていたので、(かすがうらでは)それなりに走ることはできたと思います。恩師が応援に来てくれることになっていたし、楽しみにしていたので、残念な気持ちはありましたが、不運に思ったり、気落ちするようなことはありませんでした。パラリンピックだけを見ていれば、そうなったのかもしれませんが、今の自分は、もっと先にあるものを見ているような気がします。結婚して、新潟に帰ってきて、競技生活に一区切りつけようと思っていたところに、思いがけなく、パラリンピック挑戦という目標が出てきた。もっと速くなりたい、まだまだ頑張りたいという気持ちがまた強くなっています」

 

T46男子マラソンの世界記録は、それまでアブデラマン・アイトカモウチ(スペイン)の2時間33分08秒だったが、2020年1月19日にロジャー・マイケル(オーストラリア)がヒューストンで2時間19分33秒という驚異的な新記録をたたき出し、新時代の扉を開いている。

 

「2時間20分という世界は、すごく頑張らないと行けないところではあるけれども、可能性がないわけではないところ。そこまで到達することができれば、東京マラソンにエリートで出ることができますから、今後の競技がもっと楽しくなる。明確な目標、目標になる選手がいるおかげで、今は毎日毎日がとても楽しく、充実しています」

 

パラリンピックのマラソン競技でメダルを獲得した選手は、車いすを除くと、いずれも視覚障害のクラスで柳川春巳(アトランタ・金)、高橋勇市(アテネ・金)、道下美里(リオ・銀)、岡村正弘(リオ・銅)がいるが、T46のクラスでは、まだメダリストは出ていない。

 

「かすみがうらの前は、いわゆるマラソントレーニングをしていましたが、今はスピードを強化して、マラソンに生かす練習をしています。クラス認定をされてから、まだ走ったレースがないので、世界ランクに入っているわけでもないし、代表選手になったわけでもないのですが、やる以上は、2時間20分を切って、金メダルを取りたい思っています。

今は、100kmもトレイルランも封印して、マラソンだけをやっていますが、自分のまた何年か後を楽しくしてくれる期間だと思っています。今、マラソンをやっていることで、100kmでの力も着いて、6時間20分台を出して、再び日本代表にということも考えています」

 

永田は今年36歳になった。

自らの挑戦だけでなく、自分が頑張ることで、日本のパラスポーツを盛り上げたいとも考えている。

2010年の事故から10年。不安で押しつぶされそうなときも走り続けてきた先に永田の未来があった。

2020年6月27日、永田は父親になった。

 

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