勝負を決める一瞬のため頭脳、身体、精神を磨く

卓球 2019/11/08
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編集者

笹岡(旧姓・霜鳥)光央は「卓球競技は100m走をしながら、チェスをするようなスポーツ」という言葉を教えてくれた。相手がラケットのどちらの面で、どこへ、どんな回転のボールを打ち込んでくるのか。そのボールをどう打ち返すか。次は、どこに、どんなボールが返ってくるのか。2手先、3手先を読み、どのようにして、「チェックメイト」へ持っていくか。戦略、観察、判断、そしてそれを素早く、正確にやり遂げる運動能力を競い合う。笹岡は卓球という競技をそんな風に捉えている。

 

卓球選手のボールは時速100㎞ を超え、トップクラスの選手なら時速200㎞ に迫るという。卓球台の長辺2.74mから計算すると、相手が打ったボールが自分の手元に来るまで約0.1秒。そんな一瞬で、選手は、相手の動きを見極め、考え、判断し、反応している。笹岡は「だから、面白い。夢中になれるんです」と言った。

 

しかし、笹岡は、卓球から離れかけた時がある。小学4年から卓球を始め、吉田中学校で全中出場を果たした笹岡は、卓球を「やり切った」気持ちになっていた。卓球強豪校ではない三条東高校へ進学したのは、競技としての卓球からは距離を置くつもりだったからだ。そんな笹岡に声をかけたのが、当時、三条工業高校(現・県央工業高校)で外部コーチをしていた長谷川茂昭だった。長谷川は当時も今も仕事を持ちながら、外部コーチとして高校生の指導をしている。新潟県の卓球強化に人一倍の情熱を注いできた長谷川が見ると、当時の笹岡は、「退屈しているようだった」。このままでは惜しい、本人も自分も悔いが残る。放っておけなかった。

 

長谷川は、笹岡に声をかけ、三条工の練習に参加させた。これが笹岡のターニングポイントになった。ライバルがいる。負けたくない。笹岡は再び卓球にのめり込んだ。

 

笹岡は三条東を辞め、三条工に入り直した。そして、全国高等学校卓球選手権大会新潟県大会でシングルス、ダブルス、団体の3冠を獲得し、全国大会ではシングルスベスト32まで駆け上がった。
その後、笹岡は、日本体育大学に進学するが、大学では、目立った成績を上げることができなかった。「身体を鍛えることはできた」がもやもやした思いが残った。

 

大学を卒業して、新潟に戻り、「長岡クラブ(ライジング新潟)」に入った。結婚して姓が変わった。仕事が終わってから、週2回の練習。週末は県内ばかりでなく、県外にまで遠征して練習をした。「20代、30代は卓球漬けだった」。そして、1994年、全日本クラブ卓球選手権シングルスで優勝を果たす。「このころは一番ストイックに卓球と向き合っていた時期だった。結果が出て、うれしかった。この時の優勝があったからこそ、現在まで卓球を続けていられるのだと思う」

 

2001年、全日本卓球選手権マスターズの部サーティー優勝。翌年はケガで欠場したが、03年2度目の優勝。04年は、新潟県中越地震で被災し、車中泊を経験しながら出場し、決勝まで進んだ。

 

笹岡は、昨年50歳になった。体育館にいる時間は少なくなった。「まだやりたいという気持ちはある。どうせやるなら、全日本選手権一般の部に出場したいと思う。けれども、大変なことは分かっている。仕事もある…」。笹岡はまた退屈し始めているのかもしれない。

 

 

 

笹岡は「全日本選手権や国民体育大会等に送り出してくれた勤務先、支えてくれた家族や関係者への感謝を忘れずにこれからも頑張りたい」と話した。

 

笹岡光央
Sasaoka Mitsuo

全日本クラブ卓球選手権大会1994年シングルス優勝
全日本卓球選手権大会2001年マスターズの部サーティー優勝2003年マスターズの部サーティー優勝

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